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philosophy
#読書メモ

読書メモ『文系と理系はなぜ分かれたのか』

隠岐さやか 著『文系と理系はなぜ分かれたのか』の読書メモ。文系・理系の歴史的背景と、現代における状況、今後の展望・課題について。

大まかな内容

  • ヨーロッパにおける「理工医(STEM)」と「人文社会(HSS)」、日本おける「文系」「理系」の、歴史的背景
  • 世間的な「文系」「理系」のイメージとその実態について、特に産業界・ジェンダーの文脈から
  • 「文系」「理系」という区分の不安定さ、合流・協働の方向性(学際化)について

印象に残った点、感想

日本における「文系」「理系」の発生過程について

日本における西洋学問の受容は「欧米列強の襲来と、それに伴う近代化・国力強化の必要性」という文脈で行われた。 そのために、より「実践的で役に立つ」学問として、(軍事)技術・医学・経済学が重視される傾向があった模様(本書p.89)。

他方で、当時の官僚制度上、上記のような学問を収めた理工系の技官が行政の幹部となることは難しく、トップには法科出身の文官が収めることが相次いでいた(本書p.101-102)。

こうしたある種の「ねじれ(理工系が需要される一方で、文系が権力を握る)」の存在が、のちの「文系・理系」対立における起源の一つなのかもしれない。

また、「理系(理工医)」「文系(人文社会)」という区分は、ヨーロッパにおいては長い時間の中で徐々に発生したものであり、その過程においてはむしろ明確な線引意識は薄かった(アカデミーにおける諸学の扱いなど。本書p.26-27)。 一方で、日本においてヨーロッパの諸学が受け入れられる時はすでにそうした細分化が発生した後であり、またそうした細分化それ自体が当時においてインパクトあるものだったらしい(本書p.97)。

そうした当時のインパクトから、明治以降の日本において「学問とは分割され、分かたれているもの」というイメージが一気に形成され、定着してしまった、という可能性はありうるだろうか。

産業界における「文系」「理系」のイメージと実態

「儲かる理系(STEM)」「儲からない文系(HSS)」についての調査・解説がある(本書p.129~)。

「イノベーション政策1.0~2.0」について、これを見るに、現在SNSなどで根強く語られる「文系不要論」「(学問における)選択と集中」の背景は、とりわけイノベーション政策2.0時代の影響が強そうに見える。 「儲かる理系」としての地位が確かなものとなった2.0時代(本書p.141)において、「儲かる=正義」「儲かる=役に立つ」という短絡的なイメージが、一部の人々において固定化され、それが今なお引きずられているのかもしれない。

一方で、現実にはそれによる諸問題(「知のグローバリズム」とでも言うべき資本流出・格差問題、イノベーション奨励に端を発する環境問題)が発生しており、それに対する対策(イノベーション政策3.0)として、SDGsやジェンダー政策が発せられてきた(本書p.145-151、2018年発刊当時)というのは興味深い。 現実には「儲かる理系」は銀の弾丸ではなく、むしろ様々な問題を引き起こす面もあるということは発見されており、世界は次の段階を模索しているという事実は、「反・文系」的態度に対するアンチテーゼとして強力に見える。

ただ、2025年時点でもいまだSNSではSDGsやジェンダーに対する反発は根強く、「文系不要論」といった態度もはびこっているように見える点は無視しがたい。 特にジェンダーについては、一部民間・学術のアプローチが強く批判されている(個人的にも、アプローチとして失敗していると感じる)ケースがいくつかあり、3.0政策の理念が十分に達成できるのか、不安はある。

ジェンダーと「文系」「理系」

いわゆる男女論と文理の話。「男性は理系に適正がある」「女性は文系に適正がある」といったステレオタイプについて、様々な研究結果が紹介されている。

個人的な想定としては、「肉体的な差異はあり、それにより得意分野の差異もある」「しかし、肉体的差異に基づいて社会的・学問的な振る舞い・立ち位置を決定する必要はない」という結論に着地するのかなと予想していた。

しかし、実際の話はそう単純ではなかった

  • そもそもとして「適正がある」とは何を指すのかという根本的な問(本書p.159-161)
  • いつ、どこで、何を調査するかによって結果に大きく違いが生じている
    • 事例1: 大学進学適性試験の数学(SAT-M)における800点以上の男女比は、1983年には13:1だったのが、2005年には4:1にまで縮まっている(本書p.163)
    • 事例2: 数学・科学の平均点差は、性差よりも国ごとの差の方が大きい。国によっては男女差がほとんどない場合もあれば、逆のケース(女性の点数>男性の点数)のケースまである(本書p.163-164)
  • 「才能は後から育つ」と言って聞かせる指導方法によって点数が向上したケース。自信の有無によっても点数の差が発生することが報告されている(本書p.164-170)
  • 男性は空間把握能力に、女性は言語能力に、それぞれ秀でている傾向があるのは事実。だが、同じ数学・科学のテストでも問題の出題形式によってそれぞれ点数が変わるケースも報告されており、「理系」「文系」という括りでまとめるのは容易ではない(本書p.165-166, 171-172)
    • ホルモン影響も指摘されているが、ホルモン影響よりも周辺環境の方が強く影響するという報告がある(本書p.172-173)

本書の該当箇所を読んだ限り、私見では「男女の適正差は、男女という性差よりも社会的・文化的な影響の方が大きい」という結論に落ち着くのではないかと思う。 特に「国によっては、男女が逆になるケースもある」という報告が個人的には衝撃だった。

国などは社会的・文化的差異の中でも最たるものであり、それによって逆転まで起きるとなると、およそ「理系」「文系」という大雑把な区分においては、生物的な差異などよりそちらの方がよほど影響が大きいのではないかと思う。

研究の「学際化」について

もともと私は「理系・文系」について「学問として扱う対象の便宜的な区分でしかなく、そこには必然性も本質性もない」と考えていたし、本書を読んだ後もその考えは変わらなかった(むしろ強化されたまである)。

なので、本書の最後で語られている「学際化」についても、諸学の向かう方向性としては自然な流れに思えた(かつての「アカデミー」時代に先祖返りしているようにも思え、その点でも面白く感じる)。

実際、哲学の決定論についても電気刺激とそれに対する反応を用いて議論をする研究があったり、倫理学においても行動経済学の知見を用いて議論がなされたりしている。 こうした「学際的」なアプローチとそれに伴う諸学の協働は、個人的には喜ばしいものだと思う。少なくとも「文系 vs 理系」という対立構図よりは遥かに建設的だろう。

学問間の「論争」について

本書の終盤で、著者はカントの態度(本書p.53-54)を引き合いに出しつつ、学問の対象が切実であるほど学問的議論と政治的議論の境界が曖昧になることを指摘して、だからこそ学問間の論争は必要だという考えを示している(本書p.228-234)。

少なくとも、「学問的議論と政治的議論の境界が曖昧になる」という点については、私も同意する。本書でも語られているが、人間の能力に限界があるからこそ、そうした「政治化」は避けられない面があると思う。

個人的に興味深かったのはその途中の議論で、自らの政治性を自覚できていないことを「中立」と呼ぶことの危険さを指摘している点だ(本書p.230-231)。 昨今、特に日本社会では「政治的」であることがことさらに忌避されるきらいがあるが、そうした態度それ自体が政治的立場であること、あるいは(本書でも指摘されているように)単にマジョリティの価値観に浸っているに過ぎないことを自覚できていないケースも多いように思われる。

これを「思想の透明化」と個人的には呼んでいるが、自らの思想的立場を自覚し、明確にすることは、議論を建設的に進める上で一般に重要だと思っている。 その意味で、本書の学問間論争の議論、特にその政治性を指摘する箇所は、非常に示唆的だった。

全体通しての感想

  • 「文系」「理系」という概念について、その歴史的背景も含めて解像度を上げられる良書
  • 歴史的背景の説明はやや退屈に感じたのが正直なところだが、特に日本における「文系・理系」を理解するにあたっては欠かせない内容だったと、読後に思う
  • 「文系」「理系」に関するSNS上での議論が、いかに表面的でステレオタイプに依拠しているものであるか、具体的なケースを通じて確認できる
  • ジェンダーと文理の関係について、自身のステレオタイプを解体する機会を得られたのは嬉しい誤算。ここまで複雑な実態があるとは思っていなかった