メモ -「わかりやすい」「わかりにくい」考5 - 「わかりやすさ」の認識的構造について
「わかりやすい」「わかりにくい」という評価が、認識構造上どのような立ち位置にあるかを整理する
1. はじめに
日常的な説明や議論の場において、「この説明はわかりやすい」「その文章はわかりにくい」といった評価は、ごく自然に用いられている。 これらの語は多くの場合、対象となる説明や文章、すなわち対象Xの性質を述べているかのように理解され、「わかりにくい」という評価は、そのまま「説明が悪い」という判断へと短絡されがちである。
しかし、この語法には一つの根本的な疑問が潜んでいる。 すなわち、「わかりやすい/わかりにくい」とは、本当に対象Xに帰属する性質を表しているのか、という問いである。
本稿の目的は、「わかりやすい/わかりにくい」という評価語の成立条件を分析することによって、これらの語が対象の性質を記述する語ではなく、認識主体の内的な認識過程――より正確には、認識状態の遷移の様態――に対する評価語であるものとして記述することである。
2. 奇妙な用法
任意の対象Xについて、私達はしばしば「Xはわかりやすい」「Xはわかりにくい」と語り、また実際にそう認識する。 この認識は、素朴にはXについての認識であり、またXの性質について語ったものとして捉えられているように思う。
しかしながら、「Xはわかりやすい」「Xはわかりにくい」という認識がXについての認識、またXの性質について語ったものだとすると、これらにはいくつか奇妙な用法が存在している。
2.1 「Xがわかりにくくて、理解できなかった」
難解なテキストや説明に直面したとき、しばしば見聞きする用法である。 これは専ら、対象のX(というテキストや説明)が用いている表現や記述について、批判的に語る文脈で用いられる。
あるテキストや説明について、それが「わかりにくくて理解できなかった」、言い換えれば「理解に努力や困難を伴った」あるいは「理解できなかった」という場合、それには二つの原因が考えられる。
- そのテキストや説明が語る意味内容を理解するだけの前提知識・理解能力が読み手に欠如ないし不足しているため
- そのテキストや説明が語る意味内容に対して、そのテキストが採用している表現・記述方法が不適当であるため
「Xはわかりにくい」という用法は、もっぱら後者を主張するために使われる。
「Xがわかりにくくて、理解できなかった」という用法の奇妙な点は、「Xの内容を理解していないにも関わらず、Xはわかりにくい表現・記述を用いていると評価している」という点である。 というのも、あるテキストや説明が語る意味内容に対してそのテキストや説明が用いている表現・記述方法が不適当であるかどうかは、本来そのテキストや説明が語ろうとしている意味内容を理解していなければ不可能だからである。
Xの説明として表現・記述方法が不適当であるというためには、Xの意味内容に対してその表現・記述方法が冗長である、Xの意味内容に対してその表現・記述方法が対応していない、Xの意味内容に対して矛盾を含むなど、なにかしらXの意味内容と実際に用いられている表現・記述方法を比較して初めて可能だからだ。 一見して冗長に見えたとしても、表現・記述方法が対応していないように見えたとしても、矛盾を含むように見えたとしても、現にそれらが冗長であり非対応であり矛盾であるかどうかは、それがXの意味内容に対してまさにそのようであることが確認される必要があり、そのためにはXの意味内容を理解する必要がある。さもなくば、自身の能力不足・欠如に由来する理解の困難さを、Xの形質に由来するものとして取り違えかねない。
にも関わらず、私達は掲題したような用法を使うことができるし、実際に掲題のような認識を抱くこともできる。 Xを理解していない状態で、すなわちXの「わかりにくさ」を認識するための比較対象を持たない状態で、私達は「Xがわかりにくい」ということをどうやって、何を材料に認識したのだろうか。
2.2 「Xがわかりやすい」と語った後で、「Xが実際にはわかっていなかった」と語る
私達は時折、Xについてのテキストや説明や図を見て「これはわかりやすい」と語り、またそのように認識することがある。 しかし、その後で何らかをきっかけに「Xがわかったと思っていたが、実際にはわかっていなかった」と語り、またそのように認識することがある。
この用法において奇妙な点は、「わかっていなかった」と後で認識されるということは、すなわち「Xはわかりやすい」と認識した時点でも「わかっていなかった」のだが、では「Xはわかりやすい」と語り認識したそのとき、私達は何について「わかりやすい」と語っていたのだろう、という点だ。
「Xはわかりやすい」と語ること、およびそう認識することもまた、「Xはわかりにくい」と同種の構造と制約を持つ。すなわち、「Xはわかりやすい」と語るためには、本来Xの意味内容と実際にXが採用した表現・記述形式との間に冗長さや非対応や矛盾が無いということが、Xの意味内容と実際の表現・記述形式を比較することによって認識される必要があるはずだ。 しかしながら、「Xはわかりやすい」の後での「Xが実際にはわかっていなかった」と語ることは、実際には「Xはわかりやすい」と語った時点でXについて「わかっていなかった」ということになる。 では、最初に「Xはわかりやすい」と語ったとき、私達は一体Xの何とその表現・記述形式を比較したのだろうか。
2.3 「Xがわかりやすい」と語った後で、「Xは実際には誤りだった」と語る
私達は時折、Xについてのテキストや説明や図を見て「これはわかりやすい」と語り、またそのように認識することがある。 しかし、その後で何らかをきっかけに「Xは実際には誤りだった」と語り、またそのように認識することがある。
この用法において奇妙な点は、「Xは実際には誤りだった」と後で認識されるということは、すなわち「Xはわかりやすい」と認識した時点でも「Xは誤りだった」のだが、では「Xはわかりやすい」と語り認識したそのとき、私達は何について「わかりやすい」と語っていたのだろう、という点だ。
「Xはわかりやすい」という時、それが現にXを正しく理解したことを含意するのであれば、その時点で「Xは誤りだった」ということもまた認識されていなければならないはずだ。 しかし、実際にはその時点で「Xは誤りだった」ということは認識されておらず、後になってから初めて「Xは誤りだった」と認識される。 では、最初に「Xはわかりやすい」と語ったとき、私達は一体Xの何を「わかった」のだろうか。
2.4 小括
「わかりやすい/わかりにくい」を対象Xの性質について語ったものとみなす限り、上記のような用法は奇妙なものとして現れる。
では、これらの一見して奇妙な用法が、構造上どのように成立しているのかを分析するために、まずは「わかりやすい/わかりにくい」を対象Xの性質とみなす立場が直面する原理的困難を整理する。
3. 問題設定:「わかりやすさ」を対象の性質とみなす立場の原理的困難
「わかりやすい/わかりにくい」を対象Xに帰属する性質とみなす立場は、日常語法と親和的である。しかし、この立場を理論的に維持しようとすると、いくつかの原理的困難に直面する。
3.1 評価主体による不一致の問題
まず、同一の対象Xに対して、評価が主体ごとに一致しないという現象がある。
ある説明や文章について、ある主体は「わかりやすい」と評価し、別の主体は「わかりにくい」と評価することがある。この不一致は偶発的な例外ではなく、教育、研究、議論といった実践の場で日常的に観察される。
性質帰属は、少なくとも「同一対象に対して一定の評価結果を与える規則として機能する」ことを要する。 もし「わかりやすさ」が対象Xの性質であるなら、少なくとも原理的には、評価主体が異なっても評価結果は一致するはずである。 評価の不一致が恒常的に生じるという事実は、「わかりやすさ」を対象の性質とみなす立場に説明を要求する。
このとき、しばしば次の補足が導入される。
同一対象であっても評価がわかれるのは、評価主体によって能力や前提知識が異なるためだ。
しかし、この説明は、「わかりやすさ」を対象Xの性質とみなす立場からの後退を意味する。なぜなら、この説明では、評価の差異が対象Xの性質ではなく、評価主体の条件に帰属しているからである。
主体の能力や前提知識を評価の決定要因として導入した時点で、「わかりやすさ」はすでに対象の性質としてではなく、「対象と主体との関係の中で生じるもの」として再定義されている。したがって、この補足は問題の解決ではなく、立場の変更に他ならない。
3.2 同一主体における時間的変動の問題
次に、評価主体が同一であるにもかかわらず、時間によって評価が変化するという現象がある。
ある主体が、かつて「わかりにくい」と感じた説明や書籍を、後に「わかりやすい」と感じることは珍しくない。またその逆も起こりうる。この変化は、対象Xが同一のままであっても生じる。
もし「わかりやすさ」が対象Xの性質であるなら、この評価変化を説明するためには、次のいずれかを主張する必要がある。
- 時間の経過によって、対象Xの性質が変化した
- 同一の性質でありながら、同一主体に異なる評価を生じさせる
しかし前者は、対象Xが同一の物質的実体(たとえば同一の書籍や同一の文章)である場合には成立しない。対象が変化していない以上、性質の変化を仮定することはできない。
後者を採る場合、「わかりやすさ」は、同一条件のもとで異なる評価を許容する性質であることになる。しかしそのような性質は、もはや評価の安定的基準として機能せず、「対象に帰属する性質」としての要件を満たさない。
3.3 補助仮説の累積による立場の空洞化
以上の困難を回避するために、
- 主体の能力差
- 主体の前提知識
- 経験の蓄積
- 文脈や状況の違い
といった補助仮説を順次導入することは可能である。
しかし、これらの要因を評価の決定因として認めるほど、「わかりやすさ」は対象Xそのものの性質から遠ざかり、主体の認識条件や状況との関係に依存するものとして再記述されていく。
その結果、「わかりやすさ」を対象Xの性質と呼ぶことは、理論的な説明力を失い、単なる語法上の慣用にとどまる。
3.4 小括
以上より、次の点が明らかになる。
- 「わかりやすさ」を対象Xの性質と仮定すると、「主体間の評価不一致」「同一主体における時間的評価変動」を原理的に説明できない
- これらを説明するために導入される補助仮説は、いずれも「わかりやすさ」を対象の性質とする立場からの後退を意味する
したがって、「わかりやすい/わかりにくい」を対象X単独の性質とみなす立場は、理論的に維持困難である。
4. 「わかりやすい/わかりにくい」が成立するために必要な前提
前節において、「わかりやすい/わかりにくい」を対象X単独の性質とみなす立場が直面する困難を示した。 したがって、本稿ではこの説(仮に、対象性質説と呼ぶ)に代わる説明枠組みを提示する必要がある。
本稿では、「わかりにくい/わかりやすい」という評価語が、対象Xの性質ではなく、主体の認識状態遷移の様態に対する評価語であるとする立場(仮に、認識状態遷移説と呼ぶ)を提案する。
本節では、「Xはわかりやすい」「Xはわかりにくい」という認識が、主体と対象Xとの関係においてどのように成立するかを分析する。 そのうえで、これらの語が対象Xの性質ではなく、認識主体の内的な認識状態遷移を不可欠に含む評価語であることを示す。
4.1 「わかりやすい/わかりにくい」は即時的評価ではない
まず確認すべきは、「わかりやすい/わかりにくい」という評価が、対象Xに接した瞬間に成立するものではないという点である1。
ある説明や文章に対して「わかりやすい」あるいは「わかりにくい」と言うためには、少なくとも次の事態が成立していなければならない。
- 対象Xについて、理解しようとする過程が生じていること
- その過程を経た結果として、「理解できた」「理解できなかった」という自己認識が形成されていること
すなわち、「わかりやすい/わかりにくい」という評価は、対象が与えられた事実それ自体に対する評価ではなく、理解に至る(あるいは至らない)過程を経た後でのみ可能な、反省的評価である。
この点だけでも、「わかりやすい/わかりにくい」が対象の性質として即自的に成立する語ではないことが示唆される。
4.2 「わかった/わからなかった」という自己認識の不可欠性
次に重要なのは、「わかりやすい/わかりにくい」という評価が、「わかった」あるいは「わからなかった」という自己認識を必要としている点である。
「Xはわかりやすかった」と言うとき、主体は「Xはしかじかであるという認識を構成した(Xであるとわかった)」という認識を必要とする。 「わかった」という自己認識無しには、「わかりやすい」という評価は成立しない。 また、ここでいう「Xはしかじかであるという認識を構成した」はあくまで主体の自己認識であり、この自己認識は、いわゆる「客観的整合性」とは独立である。 したがって、この自己認識が論理的に正しいか、錯誤に基づくかは、ここでは問わない。
くわえて、「その認識が構成されるに至るまで、主体は強い困難を感じなかった、あるいは困難が小さかった」という、自身の経験に対する認識も伴っている必要がある。 この認識構成における困難の小ささが、「わかりやすい」という評価の核心的要素である。
逆に「Xはわかりにくかった」と言うとき、主体は以下いずれかの状態である。
- 「Xはしかじかである」という認識を構築できなかった(わからなかった)
- 「まだ理解していると言い難いが~」など、「認識の構成に失敗したと確定したわけではないが、認識の構成が成立しているとは言えない」という自己定位も含む
- 「Xはしかじかである」という認識を構築できたが、「認識を構成するに至るまで、強い困難を感じた」という自身の経験に対する認識を伴っていた(わかったが、わかりにくかった)
これらは総じて、認識構成の失敗も含む、認識構成における困難の大きさを指していると言え、これこそが「わかりにくい」という評価の核心的要素である。 ここで言う「困難」とは、主体の経験的な要素であり、時間や物理的負荷などに限定されず、またそうした自然主義的要素に還元もされない。
したがって、「わかりやすい/わかりにくい」という評価は、「理解が成立したか否か」、および「その成立がどのような仕方でなされたか」という、主体自身の認識状態に関する二次的な認識を不可欠な構成要素として含んでいる。
4.3 認識状態遷移としての理解過程
ここで、「理解した/理解できなかった」という自己認識が、どのような構造を持つかを整理する。
対象Xを認識する主体は、通常、初期状態として「Xを知らない/Xがわからない」という認識状態にある。 そこから、
- 対象が何についてのものか
- 用語や操作をどのように解釈すべきか
- なぜその結論が導かれるのか
- どの前提や条件のもとで成立しているのか
といった点が整理されることで、「Xがわかった」という認識状態へと移行しうる。
このとき、主体の内部では、「わからない」状態から「わかった」状態へという認識状態の遷移が生じている。
「理解する」とは、この遷移が成立することであり、「理解できない」とは、この遷移が成立しない、あるいは中断されることである。
4.4 「わかりやすい/わかりにくい」の定義の導出
以上の検討から、「わかりやすい/わかりにくい」という評価語は、「理解した/理解できなかった」という結果そのものを記述する語ではないことが明らかになる。
実際、同一の対象について、理解に至った場合であっても「わかりにくかった」と評価されることがあり、逆に、最終的には理解に至らなかった場合であっても「説明自体はわかりやすかった(総体としては理解できなかったが、個々の説明自体は速やかに理解できた)」と評価されることがある。 このような語用が自然に成立する以上、「わかりやすい/わかりにくい」を理解の成否そのものと同一視することはできない。
理解とは、主体において「わからない」という認識状態から「わかった」という認識状態へと移行する過程として捉えられる。 「わかりやすい/わかりにくい」という評価が指し示しているのは、この結果としての到達点ではなく、そこに至るまでの認識状態遷移がどのような仕方で成立したか、という点である。
したがって、「わかりやすい」とは、「わからない」から「わかった」への認識状態の遷移が、主体にとって低い摩擦で成立したと認識された場合に成立する評価であり、 「わかりにくい」とは、その遷移が困難であった、あるいは成立しなかったと認識された場合に成立する評価である。
「わかりやすい」「わかりにくい」という評価語は、対象Xそのものの性質を述べるものでも、理解の成否という結果を述べるものでもなく、よって、対象Xそのものの評価語としては機能しえない。 したがって、「Xはわかりやすい」という言葉、あるいは「Xはわかりにくい」という言葉をもってX単独の「良さ」「悪さ」「正しさ」「誤り」を語ろうとするのは、論理的な瑕疵を必然的に含む。
4.5 小括
本章では、「わかりやすい/わかりにくい」という評価語が、対象Xそのものに備わった性質を述べる語ではなく、対象Xを認識する主体の側で生じる認識状態遷移に対する評価語であることを論証した。 具体的には、これらの評価が、対象に接した瞬間に即時的に成立するものではなく、理解に至る(あるいは至らない)過程を経た後でのみ成立すること、さらにその成立には「わかった/わからなかった」という主体自身の自己認識が不可欠であることを確認した。
また、「わかりやすい/わかりにくい」という評価は、理解が最終的に成立したか否かという結果そのものを述べる語ではなく、「わからない」状態から「わかった」状態へと至る認識状態遷移が、どのような仕方で成立したかに向けられた評価であることを示した。 すなわち、「わかりやすい」とは、その遷移が主体にとって低い困難で成立したと自己認識された場合に成立する評価であり、「わかりにくい」とは、その遷移が困難であった、あるいは成立しなかったと自己認識された場合に成立する評価である。
以上から、「わかりやすい/わかりにくい」は、対象X単独の性質や価値、正しさを述べる評価語としては原理的に機能しえないことが明らかになった。 これらの語は、対象・主体・理解過程の関係においてのみ意味をもつ評価語であり、対象Xの「良さ」や「悪さ」を直接に帰属させることは、論理的な混同を不可避的に含む。
5. 「奇妙な語法」の構造的解明
5.1 「Xがわかりにくくて、理解できなかった」
本稿の枠組みによれば、「Xがわかりにくくて、理解できなかった」という用法は、次のように説明される。
- 主体はXに接した際、「わからない」状態にある
- 主体はXを理解しようとする過程を開始する
- しかし、Xの内容や表現・記述形式、あるいは主体の前提知識・理解能力不足、あるいはその両方によって、「わかった」という自己認識状態遷移が成立しない
- この結果、主体は「Xはわかりにくい」という認識を、より正確には「わかったと認識構成へ遷移する試み」に対して「困難が大きかった」という認識を構成する。
「わかりにくい」はXに対する直接的な認識ではなく、Xを理解しようとする過程に対する認識であるため、Xの内容を理解していない状態であっても、「Xはわかりにくい」という認識が成立する。
5.2 「Xがわかりやすい」と語った後で、「Xが実際にはわかっていなかった」と語る
同様に、「Xがわかりやすい」と語った後で、「Xが実際にはわかっていなかった」と語る用法も、本稿の枠組みによって説明される。
- 主体はXに接した際、「わからない」状態にある
- 主体はXを理解しようとする過程を開始する
- 主体はXの内容や表現・記述形式、あるいは主体の前提知識・理解能力によって、あるいはその双方において、「わかった」という自己認識状態遷移が成立する
- この結果、主体は「Xはわかりやすい」という認識を、より正確には「わかったと認識構成への遷移」に対して「困難が小さかった」という認識を構成する。
- しかし、後に主体はXの内容について再検討を行い、Xの内容に関する自己認識が誤りであったことを発見する
- この結果、主体は「Xが実際にはわかっていなかった」という認識を構成する
「わかりやすい」はXに対する直接的な認識ではなく、Xを理解しようとする過程に対する認識であるため、最終的にXの内容に関する自己認識が誤りであったとしても、「Xはわかりやすい」という認識が成立する。
このことは、「わかりやすい/わかりにくい」という評価が、対象Xそれ自体に対する理解とは独立であることを、改めて示している。
5.3 「Xがわかりやすい」と語った後で、「Xは実際には誤りだった」と語る
同様に、「Xがわかりやすい」と語った後で、「Xは実際には誤りだった」と語る用法も、本稿の枠組みによって説明される。
- 主体はXに接した際、「わからない」状態にある
- 主体はXを理解しようとする過程を開始する
- 主体はXの内容や表現・記述形式、あるいは主体の前提知識・理解能力によって、あるいはその双方において、「わかった」という自己認識状態遷移が成立する
- この結果、主体は「Xはわかりやすい」という認識を、より正確には「わかったと認識構成への遷移」に対して「困難が小さかった」という認識を構成する。
- しかし、後に主体はXの内容について再検討を行い、Xの内容が誤りであったことを発見する
- この結果、主体は「Xは実際には誤りだった」という認識を構成する
「わかりやすい」はXに対する直接的な認識ではなく、Xを理解しようとする過程に対する認識であるため、最終的にXの内容が誤りであったとしても、「Xはわかりやすい」という認識が成立する。 これは、「わかりやすい」がその表記とは裏腹に、対象Xそれ自体への直接的な認識ではないからこそ成立する。
また、このことは「わかりやすい」ことはその意味内容の客観的な妥当性を保証しないことをも示している。
6. まとめ
わかりやすさ・わかりにくさとの関係は、次の図にまとめられる。
7. おわりに
「わかりやすい」「わかりにくい」という体験それ自体は、否定されるべきものではない。
しかしそれは、直ちに対象や説明の正当性あるいは欠陥を意味しない。
また「わかりにくさ」は内容(構造条件)の不足だけでなく、提示形式に由来する処理摩擦(処理条件の不足)としても生じうる。
本稿は、その体験を責任論や感情論ではなく、認識構造として扱うための枠組みを提示した。
「わかりやすさ」は便利な評価語である。だが便利であるがゆえに、しばしば正当化の代用品として誤用される。 わかりやすいことは正しいことを含意しないし、わかりにくさの原因は対象にあるとは限らない。
また、「わかりやすさ」「わかりにくさ」は主観的であるが、主観的であるからこそ、認識構造の分析に有用な指標となりうる。 「わかりやすさ、わかりにくさは主観的だ」ということを以て、それらの構造的分析・吟味を放棄する理由にはならない。
目指す地点は、わかりやすさ・わかりにくさの認識構造を明らかにし、それらを適切に扱うための理論的基盤を提供することである。 それによって、「わかりやすい」「わかりにくい」という評価が妥当性や正しさの代理を行ってしまう状況を防ぎ、あるいはその代理を検出可能にするための語彙・枠組みを揃えること。 また、「わかりやすい」「わかりにくい」が主観であるという理由で遮断されることなく、あわよくば現象学的観点からその構造を描き出すための基盤を整えることを目標とする。
本稿はその地点には遠く届いていないが、その地点を目指すための一歩目として、ここに記しておく。
8. 資料メモ
-
SEP: Phenomenology
-
SEP: Intentionality(Section 3)
-
SEP: Intrinsic vs. Extrinsic Properties
-
フッサール『イデーンI』§77-79, §84-96
-
Dan Zahavi, Husserl’s Phenomenology, Ch. 3-4
-
フッサール『内的時間意識の現象学』§7-17
-
SEP: Relations(Section 1-3)
-
David Lewis, “Extrinsic Properties”
-
SEP: Self-Consciousness(Section 1-2)
Footnotes
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見た瞬間の「わかりにくそう」は、理解過程の結果としての評価ではなく、過去経験に基づく困難予期であり、本稿の定義する評価とは区別される。 ↩