読書メモ『科学と人間の不協和音』
池内 了 著『科学と人間の不協和音』の読書メモ。科学と社会の関係性と、現代における課題について。
大まかな内容
- 科学者が誰の「方向」を向いているのか、科学と社会の歴史・関係性について
- 「文化」としての科学と「文明」としての技術を対比、また両者の接近とその影響について
- 資本主義社会において「役に立つ」ことを迫られる科学と、その影響(科学の宗教化・商業化、知の私有化)について
- 地下資源文明から地上資源文明への転換、その展望
印象に残った点、感想
科学者の「方向性」について
「科学者が誰の方向を向いているのか」という問い、すなわち「科学者はどこに向かって研究を行っているのか」という観点の整理は、興味深かった。
自然哲学の時代においては神の方向を向き(真理の探求)、19世紀において税金で雇用されるようになった科学者たちは市民の方向を向き(公共の利益のための研究)、 20世紀において戦争の時代においては国家の方向を向き(軍事技術の開発)、戦後の資本主義社会においてはスポンサーである企業や、競争相手である同僚の方向を向くようになった(「役に立つ」、知の私有化)、という整理だ(p.14-16)。
19世紀まではある種牧歌的で、いわゆる「科学」のイメージ(公共の利益のために、自然科学的真理を探求する)が成立していたが、20世紀以降は科学外部からの圧力が一気に強くなり、そうしたイメージが大きく揺らいでいることが分かる。
「外部からの圧力」とその影響という側面は、のちの「科学の限界」においても、ニュアンスは異なるが重要なポイントとして上がっている。 「科学」および科学者がどのように振る舞うべきかについて、著者はこの「外部との関係性」を重視して語っているように見える。
「文化」としての科学について
日本語では「科学技術」という一語でまとめられがちな「科学」と「技術」を、著者は明確に区別している。 著者はおもに精神活動に関するものを「文化」、物理的な形式に関するものを「文明」と呼び、「科学」は「文化」の一部、「技術」は「文明」の一部として位置付けている(p.70~)。
ここでの「文化」としての「科学」は、いわゆる「実学」「実益志向」としてイメージされる「科学(技術)」とは異なり、むしろ「知的好奇心」「真理の探求」といった側面を強調しているように見える。 そうした「科学」を「役に立たないもの」と言い切ってしまいつつ、「不用の用」としての価値を肯定している点は興味深い(p.66)。
私は「技術」においても、しばしば「不用の用」が存在する、あるいは必要となるシーンがあると考えていて、その点で著者とは見解を異にするかもしれないが、「役に立つものが全てではない」「不用の用こそ必要なシーンもある」という価値観には、強く同調する。 本書では、資本主義社会において「役に立つこと」を迫られる科学の問題点が指摘されており、その文脈での「不用の用」の肯定は、非常に説得力があるように思えた。
著者のスタンスについて
若干首をひねったところ。
本書では、しばしば「専門外の分野についても、訳知り顔でものを語る科学者」についてそれなりに強い批判を行っているが、4章ではしばしば著者自身がそのような態度を取っているように見える点が気になった。 例えば宗教一般や共産主義など、主に人文系方面(=著者の専門外)に関する話題において、著者はしばしば偏見を含む態度を取っているように見える。
全体のまとめ
科学と社会の関係性を「科学者が誰の方向を向いているのか」という観点から整理しつつ、 現代の資本主義社会において「役に立つこと」を強いられ、またそれに適応的な科学者の行動に対して批判的な視点を提供している点が興味深かった。
また、「文化」としての科学を評価しつつ、そこに「不用の用」の価値を見出している点も、個人的には共感できる部分が多かった。