定義の議論を「自転車置き場」で片付ける前に
専門用語の定義を自動的に「自転車置き場」と退ける前に、その影響範囲と判断への関与を見直す必要について
ソフトウェア開発の議論において、専門用語や専門概念の定義を問い直そうとすると、「それは自転車置き場の議論ではないか」という反応に出会うことがある。
この反応には、一定の妥当性があるようにも思える。 実装や設計を前に進めたい局面で、抽象的な言葉の定義に立ち戻る行為は、遠回りや停滞に見えやすい。 限られた時間とリソースの中で議論を収束させようとする態度自体は、実務的な判断とも言える。
本稿では、その言葉で片付けてしまう前に、立ち止まって考えてみたい。
「自転車置き場の議論」とは何を指しているのか
一般に「自転車置き場の議論」と呼ばれる現象は、あるいは「パーキンソンの凡俗法則」として、英語圏では”Law of triviality”として知られている。
この法則が指しているのは、人々が重要で複雑な問題よりも、重要度は低いが理解しやすい問題に対して、より多くの時間と注意を割いてしまう傾向である。
ここで問題とされているのは、「詳細な話題を扱っていること」そのものではない。 焦点は、議論に割かれる注意資源の配分が歪むことにある。
典型的な説明では、原子力発電所のような極めて重大で複雑な設計は短時間で承認される一方、誰もが意見できる自転車置き場の設計については、延々と議論が続いてしまう、という対比が用いられる。
この文脈で言う「自転車置き場の議論」とは、話題の種類を直接的に分類する言葉ではない。 どの問題に、どれだけの注意と時間が割かれているかという、議論の構造そのものを指す概念である。
専門用語の定義は「些末な話題」なのか
では、専門用語や専門概念の定義を問い直す行為は、ここで言う「理解しやすいが重要度の低い話題」に当たるのだろうか。
ソフトウェア開発における専門用語は、単なる言い換え可能なラベルではない。 それらは、設計判断、評価軸、失敗原因の切り分けといった行為を、複数人で共有するための道具である。
もし同じ言葉が、人によって異なる意味で使われているとしたらどうなるか。 表面的には合意しているように見えても、実際には異なる前提のもとで判断が下されることになる。
このとき起きているのは、細部への過剰なこだわりではなく、前提条件の不一致である。
定義のずれは、議論が深まってから顕在化するとは限らない。 むしろ初期段階で静かに作用し、後になってから「なぜ話が噛み合っていなかったのか」を分かりにくくする。
なぜ定義の議論は「自転車置き場」に見えやすいのか
それでも、定義の議論が自転車置き場に見えてしまう理由は理解できる。
定義による恩恵は、具体的な利益・効果として可視化されにくい。 動いているコードや、明確な性能改善のように、なんらかの成果として測定しづらい性質を持っている。
また、定義を確認した結果として「何も変わらない」こともある。 その場合、費やした時間が無駄だったように感じられることもあるだろう。
こうした事情から、実務の文脈では定義の議論は「今やらなくてもよいもの」「後回しにできるもの」として扱われやすい。
この判断自体は、必ずしも非合理ではない。
「自転車置き場だ」という判断は、いつ下されているか
注意すべきなのは、「定義の議論は自転車置き場だ」という判断が、個々の議論内容を検討した後ではなく、検討する前に下されることが少なくない点である。
- その定義は、どの設計判断に関与しているのか
- 問い直さなかった場合、どのような誤解が固定化されるのか
こうした問いが立てられる前に、「それは自転車置き場だ」という言葉によって議論が終了してしまう。
このとき行われているのは、“Law of triviality”が警告しているような「注意配分の歪み」を是正する行為ではない。
むしろ、検討そのものの省略である可能性がある。
定義の議論が本当に自転車置き場になる場合
もちろん、すべての定義の議論が正当化されるわけではない。
例えば、以下のような場合には、定義の議論が不適切になる可能性がある。
- 定義を確定しても、設計判断や行動が何も変わらない
- 問題の所在が、すでに実装や制約条件の層にある
- 定義の差異が、単なる言い換えや好みの違いに留まっている
このような場合、定義の議論は確かに注意資源を不釣り合いに消費するものになりうる。
重要なのは、「定義を問うこと」それ自体ではなく、その定義が何に関与しているのか、不明確なまま議論されていることである。
片付ける前に、一度だけ
定義を問い直す行為は、それ自体では自転車置き場の議論ではない。 むしろ、迂闊な「自転車置き場」という判定は、程や影響範囲を確認する前に、ラベルによって議論を片付けてしまう行為になりかねない。
「定義の議論は自転車置き場だ」という感覚は、状況によっては有効な警戒心でありうる。 しかし、それが自動反応になったとき、本来問われるべきものが、視界から消えてしまう可能性もある。
片付けるかどうかを判断する前に、その定義が何を支えているのかを一度だけ確認する。 それだけでも、議論の質は変わりうる。