読書メモ『センスの哲学』
千葉雅也 著『センスの哲学』の読書メモ。『勉強の哲学』に続くデリダ、ドゥルーズ実践としての芸術論
ざっくり言えば、『勉強の哲学』と同じく、デリダやドゥルーズ、さらにおそらくラカンにも接続しうる発想を背景にしながら、今回はそれを芸術論へ展開した本だと読んだ。
本書の序盤には、「センスがいい/悪い」という単純な二項対立から「ヘタウマ」へと視点を移す展開が示されている。そこには明言こそされていないが、おそらくはここにデリダの脱構築が実践(あるいは応用)されているように思った。 この展開とそれを描くまでの筆致は、同じ著者による『勉強の哲学』における「ノリが悪くなる」から「来たるべきバカ」へ向かう議論を思い出させた。 『勉強の哲学』でも感じたことだが、デリダやドゥルーズの扱う概念を、そうと明示することなくさりげなく仕込むのが上手い(と、少なくとも私はそのように読み、感じた)。
本書では「リズム」「うねり」「ビート」といった、音楽的な比喩が頻繁に用いられる。 芸術作品を、まず意味の解読対象としてではなく、流れや反復、切断や接続の運動として受け止める。 その見方を得ると、これまで「意味不明」としか感じられなかった作品にも、別の入口が見えてくる。
実際、本書で提示されている作品、あるいは芸術手法に分類されるいくつかの作品に触れてみて、その感覚が少し分かった気がした。 本書でも表紙に使われているラウシェンバーグの絵画は、当初はほとんど落書きのようにしか見えなかった。 しかし本書を踏まえると、そこに雑多な要素がただ散らばっているのではなく、「切断」と「接続」、あるいは「差異と反復」が、こちらの視界を揺らし続ける「リズム」が、そこに見いだせるように思えてくる。
同じことは、『アンダルシアの犬』にも感じた。本作でシュルレアリスムが紹介されており、その繋がりで視聴してみた作品だ。 普通に見れば、意味不明な映像の羅列である。だが、本書で語られたように、無意識や偶然性に開く試みとして見ると、その意味不明さそれ自体が作品の核なのではないかと思えてくる。 自転車、女装、男と女、アリの這う手、手首、ピアノ、宣教師、牛(?)の死体、銃、浜辺。 「このような意味を作ろう」と予め配置されたものとして見るというより、偶然性によって配置されたものとして見て、そこに自ら何かを見出す。そうした楽しみがある。 その意味で、本書はシュルレアリスムを「難解な作品」としてではなく、それ自体として見る「センス」を与えてくれると言えるのかもしれない。
さらに、やはり本書で紹介されていたゴダールの『さらば、愛の言葉よ』も視聴してみた。本書でいう「過激」の意味も少し分かった気がした。 意味内容を追おうとするのではなく、ショットの切り替わりやズレ、音楽の唐突な切り替わり、あるいは無音、画面の明るさ、登場人物など、形式そのものの運動に身を置いてみる。 そうすると、ゴダール初心者の自分なりにも、作品に入り込むための足場が生まれる。本書流にいえば、「意味から離れる」ことがゴダール作品を受け取る一つの入口になるのだろう。
読んでいて興味深かったのは、この本は「芸術の見方」を語っているだけではなく、その手法において『勉強の哲学』とも通じているように思えたことだ。 巻末で薦められていた『疾風怒濤精神分析入門』も読みつつあるが、それを踏まえると、『勉強の哲学』の「ボケ」もまた、ラカン的な「可能性の過剰」や自由連想に近いものとして捉えられるのかもしれない。 さらに本書においても、ラカン的な概念は特に「享楽」「無意識」「偶然性」というワードでしばしば参照される。 『勉強の哲学』における「ボケとツッコミ」と、『センスの哲学』における「サスペンス」や「リズム」は、どちらも秩序を少しずらし、そのずれから新しいものを見つける実践として(ある種の精神分析的な取り組みとして)、かなり近い場所にあるように感じた。
ラウシェンバーグにせよ、『アンダルシアの犬』にせよ、ゴダールにせよ、本書を読む前なら、私にはおそらく「意味不明な色」「意味不明な映像」「意味不明なショット」の連続にしか見えなかったと思う。 しかし本書を読んだあとでは、それらの中に素人なりのリズムを、あるいは接続と切断の運動を、あるいは「差異と反復」を、その内に見出せるようになった。
だからこの本は、単に「センスとは何か」を論じる本ではない。 むしろ、これまで自分には受け止められなかった作品に対して、受け止め方そのものを少し変えてくれる本である。そういう意味では、本書はたしかに、「センスが良くなる」本だと言っても大げさではない。 ただしそれは、正解を教えてくれるという意味ではない。意味不明さをすぐ切り捨てず、その中にリズムやうねりを探す構えを与えてくれる、という意味でそう言えるのだと思う。
しかし一方で、本書は終盤で少し様子が変わるように思う。それは特に「アンチセンス」という概念を扱うにあたって、それが具体的に登場する直前の7章から通じて感じた。
6章までは人間の自由さ、奔放さ、「可能性の過剰」さが、ある種の賛歌的に描かれていたように思う。 しかしながら、7章からは転じてそれらを「仮固定(有限化)」していく方向へと舵が切られ、それまでにあった自由さやランダム性が絞られていく方向になる。 そして最終8章において「アンチセンス」という概念は、「暗い道」と評されながら、しかし人間として切り離せない「どうしようもなさ」として示される。
そしてそれらは「日常」の中の「一人暮らしの部屋」へと一気に収束され、唐突に、さながら「ショット」のように本書は終わる。 ついさっきまで乱痴気騒ぎをしていたのが急に我に返ったような、あるいは賑やかな集まりから帰ってきて自室の電気を点けた時のような、そんなほの暗さを感じた。
この読後感に近いものとして、高橋哲哉『デリダ―――脱構築と正義』(こちらも、やはり千葉雅也『現代思想入門』で紹介されていた)の二章終盤を連想した。 そこでは『プラトンのパルケマイアー』を題材にデリダによる執拗なまでのプラトン読解を追いかける内、ついには「プラトン」という哲学者そのものが危うくなる。 『センスの哲学』では、人間の自由さ・ランダムさ(「リズム」)を掘り下げていく内に、人間である以上どうしても逃れられない「身体性」「アンチセンス」に着地する。
「センス」につきまとう「原エクリチュール」、いわば「原アンチセンス」を暴き、「センス」と「アンチセンス」の分かち難さを示す。 「センス」が良くなることを求めた結果、そこに「アンチセンス」が分離不可能な形で顔を出す。それを最後に「日常」というやはり回避不可能なものとして見せる。 その意味で本書は、芸術論という舞台で『プラトンのパルケマイアー』を再演してみせたのではないか。そのように感じてならない。