読書メモ - 『シュルレアリスムとは何か』
巖谷國士『シュルレアリスムとは何か』を読み、シュルレアリスムを「奇妙な表現」ではなく、主体の意図を超えて現れるものを受け取る実践として考えた読書メモ。
本書の大まかな整理
巖谷國士『シュルレアリスムとは何か』は、シュルレアリスムを単なる「奇妙な表現」や「不可思議な幻想」の様式としてではなく、いわゆる「現実」とは異なる、しかし連続している「超現実」への接近として説明している本として理解した。
特に印象に残ったのは、シュルレアリスムが「超現実」や「現実を超えたもの」ではなく、むしろ「非常に現実的」なものとして説明されていた点である。 日常語としての「シュール」には、奇妙なもの、現実離れしたもの、意味不明なものという印象がある。しかし本書で説明されるシュルレアリスムは、その印象とはかなり異なる。
本書ではシュルレアリスムが「客観主義」として語られる。シュルレアリスム作品は、一見すると主観的な空想や夢の表現に見える。 しかし本書の説明に即して読むなら、ここでいう客観性とは、「誰から見ても同じように確認できる」という意味ではなく、「私が意図的に作ったものではない」「私を通して何かが現れる」という意味に近いように思う。
印象に残ったこと
「シュルレアリスム = 客観主義」
最初に強く印象に残った点として、シュルレアリスムが「客観主義」として説明される点がある。
私がもともと持っていたシュルレアリスムの印象は、かなり素朴なものだった。 現実にはありえないもの、夢のようなもの、奇妙な組み合わせ、不可思議なイメージ。 つまり、どちらかといえば「現実から離れたもの」として捉えていた。 本書でも、そうしたイメージが「シュール」ないし「シュール・レアリズム」として人口に膾炙していると言及している。
そのため、「シュルレアリスムは客観主義である」という説明には、最初かなり違和感があった。 いわゆる「客観性」とは、第三者が観測できること、主観に左右されないこと、誰が見ても同じように確認できることを指すように思える。 そう考えると、シュルレアリスム作品は客観的というより、むしろ主観的・幻想的・夢想的なものに見える。
しかし、本書でいうところの「客観性」は、そのような意味ではないようだった。
シュルレアリスムにおける客観性とは、「私が対象をこう見た」「私がこう表現した」という主観的な構成から離れることとして説明されている。 つまり、「私が意味づけた世界」を描くのではなく、「私を通して、何かがそれ自体として現れる」ことを重視する。 その意味では、シュルレアリスムは主観の表現ではなく、むしろ主観による統制を弱めようとする実践である。
そう考えると、「シュルレアリスム = 客観主義」という説明は、最初ほど奇妙ではなくなる。
むしろ、主体の意図や統制を超えて現れるものへの態度としては、たしかに客観主義と呼べるのかもしれない。
本書を読むと、客観性には「私の意図を超えて現れるものに開かれていること」という別の側面がありうるのではないかと思った。
「私が描く」のではなく「私を通して現れる」
オートマティスムとデペイズマンの説明を読んでいて、どちらにも共通しているのは、「私が描く」という主体の位置が後退していることではないかと思う。
オートマティスムでは、自動記述が問題になる。書き手が意識的に構成し、統制し、意味を作るのではない。浮かぶまま、手が動くままに、その意味で「自動的」に書かれていく。 もちろん、主体が物理的に消えるわけではない。手を動かしているのは書き手であり、作品として残るものも書き手を通して生じる。 重要なのは、その作品が「私がこう表現したいと思って作ったもの」としてでなく、「何か(だれか)が現れたもの」として作られるということだろう。
デペイズマンでも同じことを感じた。そこでは、「そこにあるはずがないもの」の組み合わせが問題になる。 異なる雑誌の切り抜きのコラージュ、マグリットの「ピレネーの城」は、作者が主観的に描いた図形・仮想世界というより、異質なもの同士の接触によって「何か」が現れる場として描かれる。
このとき、作品は「私」が所有する表現ではなくなる。
むしろ、「私」を通じて、あるいは「私」の統制が緩むことで、「何か」が現れてしまう。
自己を表現するのではなく、自己を通路にする。あるいは、自己の統制を少し外して、「客観的な何か」が現れる余地を作る。
自分が何かを完全に理解し、整理し、意味づけてから表現するのではなく、むしろ理解や整理の手前で現れてくるものに触れようとする姿勢は、個人的に興味深く思う。
カントとシュルレアリスム
本書を読みながら、私はカントのコペルニクス的転回を連想した。
通常の認識では、私たちは対象をそのまま受け取っているのではなく、感性や悟性の形式を通じて対象を経験している。 そう考えるなら、私たちが「現実」と呼んでいるものは、すでに何らかの仕方で構成された現実である。
この観点から見ると、シュルレアリスムは、悟性によって分類され、概念化され、秩序づけられた対象を描くのではなく、その手前にある現れを捉えようとする試みと考えられるのではないか。
本書が直接カントを論じていたり、カントとシュルレアリスムの接続を主張しているわけではない。 そのため、シュルレアリスムを「悟性以前の世界を描くもの」と言ってしまうのは、理解として不正確かもしれない。 しかしながら、私はそう読んでみたくなった。
つまり、一般的な芸術が「これは人間である」「これは風景である」「これは物語である」といった認識済みの対象を描くものだとすれば、シュルレアリスムは、そのような認識が成立する前後の境界を揺さぶるものなのではないか。 「私」が対象に対して安定した意味を与えてしまう以前、その段階において「現れる何か」を捉えようとする試みとして、シュルレアリスムを考えられないだろうか。
おとぎ話は「悟性以前の世界」なのか
おとぎ話とシュルレアリスムの接続も印象に残った。
本書では、おとぎ話における「フェーリック」な感覚(異なる法則に基づくワンダーランドの感覚)が、シュルレアリスムと接続されていたと理解している。 幻想的・幻惑的な世界は、現実から完全に切り離されたものではなく、むしろ現実と連続している。シュルレアリスムは、そのような感覚を現実のなかで目覚めさせようとするものとして説明されている。
ここでも私は、カント的な問題意識とつなげて考えたくなった。
おとぎ話の世界は、悟性によってきれいに分類される以前の世界なのではないか。 そこでは、現実の法則が別の仕方で、少なくとも悟性によるカテゴリ化以前の仕方で働いている。 人間、動物、物、場所、時間が、悟性によって整理された仕方とは別の仕方で結びつく。 そうした世界は、概念によって固定される以前の直観の世界に近いのではないか。
また、おとぎ話では、主人公の固有性や内面が薄い場合があるとされている。 主人公は特定の「私」というより、「だれか」として現れる。名前がなかったり、心理描写が少なかったりする。 そのことも、私には興味深かった。
ある特定の「私」が、自分の内面や意図に基づいて世界を構成する以前に、世界の方が「フェーリック」な仕方で現れている。 おとぎ話は、そのような世界の現れ方を保存しているのではないか。そう考えると、おとぎ話とシュルレアリスムが接続される理由が少し見えてくる気がした。
ラカン的〈他者〉への連想
並行してラカンについての入門書も読んでいたため、シュルレアリスムにおける「私ではない何か」の現れから、ラカンにおける〈他者〉を連想した。
オートマティスムにせよ、デペイズマンにせよ、そこでは「私」が完全な作者として君臨しているわけではない。 むしろ、「私」を通して、しかし「私」の所有物ではない何かが現れてくる。そこに私は、ラカン的な意味での〈他者〉に近いものを感じた。
特にオートマティスムにおいては、「私」が書いているとしても、書かれている言葉はすでに「私」ではなく「誰か」として紡がれている。
言語、無意識、欲望、社会的な意味の網の目。そうしたものが、私の意図を超えて「何か(誰か)」として、自動記述に入り込んでくる。
シュルレアリスムもまた、そのような「私ではないもの」の出現に関わっているように見えた。
その意味で、シュルレアリスムは〈他者〉についての芸術である、と乱暴ながら言ってみたくなる。
カント同様、本書がラカンについて言及しているわけではなく、あくまでこれは個人的な連想ゲームの域を出ないだろう。 そもそも私のラカン理解自体が入門書を一読した程度なので、ラカン理解自体が多分に不十分・不正確と思われる。 とはいえ、偶然並列して読んでいた全く別ジャンルの書籍を、おそらくは不正確な理解に基づいてだろうと、接続できそうと思いついた体験は個人的に印象深い。
ユートピア・楽園とドゥルーズ
ユートピアと楽園の対比も印象に残った。
本書では、ユートピアは明るい、直線的、ローマ的、規則的、合理主義的、不変的なものとして説明されていたと理解している。 それに対して、楽園は暗い、アジア的、不規則、曲線的、非合理的、生成変化するものとして示されていた。
ユートピアには、秩序がある。
明るく、合理的で、規則的で、整っている。そこには安心があるかもしれない。しかし同時に、そこでは個々人の個性は無視され、さながらミツバチやロボットのように、ユートピアを運営する機能を果たす装置として扱われる側面も指摘されている。
一方、楽園は不規則で、曲線的で、非合理的で、生成変化する。それは安定した理想郷ではなく、むしろ揺らぎを含んでいる。
ここで私は、ドゥルーズ的な差異と反復、生成変化の問題を連想した。 ユートピアは、差異を制御し、規則的な反復によって秩序を保つ空間である。 それに対して楽園は、差異を残し、変化し続ける空間である。そう読めるのではないだろうか。
本書は「規則的・直線的・合理的」なユートピア的態度を批判し、「不規則・曲線的・非合理」な楽園的態度を肯定的に語る。 その社会観には、ドゥルーズ的な生成変化の思想が影響されているのではないか、そのように感じられた。
「現実性」の開示としてのシュルレアリスム
本書を読む前の私は、シュルレアリスムをどこか「現実から離れるもの」として捉えていた。
しかし読み終えた後では、むしろ逆の印象が残っている。
シュルレアリスムは、むしろ、私たちが通常「現実」と呼んでいるものが、すでに特定の認識、分類、制度、言語、習慣によって整えられた現実であることを疑う実践なのではないか。
通常の現実は、安定している。
物は物として、人は人として、場所は場所として、意味は意味として整理されている。
だが、シュルレアリスムはそのような整理から離れたところを目指す。すると、現実の中に別の現実性が現れる。
この「別の現実性」という点が、自分には重要に感じられた。
現実を否定するのではなく、現実の外へ出ていくのでもなく、現実の中に、まだ認識されていない「超現実」がある。 それへの感覚を目覚めさせる。
この理解が正確かはわからないが、。 しかし少なくとも、私にとって本書は、シュルレアリスムを「非現実的な奇抜さ」から「現実性の別様の開示」へと捉え直すきっかけになった。